私の部屋には、ビールグラスを前ににっこりと微笑む父の遺影写真が飾ってあります。写真の横には、生前好きだったビールやナッツ、そしてカップに注がれた一杯の珈琲が供えられています。
3年前、葬儀が終わり父の遺骨を私の部屋に連れて帰った時、ふと「そうだ、珈琲を淹れてあげよう」と思いました。その日以来、毎朝欠かさず父に珈琲を用意し、私が仕事で不在の日には妻が代わりに供えてくれています。
今年8月末に納骨を済ませると一区切りついたせいか少し安心した気持ちになり、休日に物思いにふけ写真を前にコーヒーを飲んでいると、なぜ父に珈琲を淹れてあげようと思ったのか思い至りました。父は若い頃、食品卸の会社に勤め、喫茶店で珈琲を淹れる仕事もしていたと母から聞いていました。その為か、自宅でもよく珈琲を淹れて楽しんでいた記憶があります。私が子供の頃、父と出かけると、お昼ごはんは蕎麦屋でざるそば、その後は喫茶店で父は珈琲、私がクリームソーダを注文するのが定番でした。私が成人した後も、お酒が苦手な私との共通点は珈琲でした。
晩年、介護施設に入所していた父を見舞うときには、近くのコンビニでドリップコーヒーを買ってから訪ねていました。コーヒーの香りが広がる部屋で妻と父と3人で一緒に飲んだその時間は、ほっこりとした幸せな時間であり私達夫婦にとって大切な思い出です。
毎朝父へ珈琲を供える事は、これから先も続けます。それは私ができる父への供養であり、父とのつながりを感じられるひと時だからです。故人に対する想いや価値観は人それぞれだと思います。珈琲を供えることは自己満足なのかもしれませんが、好きだったものを供えてあげられる事で、私たち夫婦の気持ちは安らぎます。毎朝お供えする淹れたての珈琲の香りに包まれながら手を合わせる時間を大切にし、おいしそうに飲む父の横顔を想いながら、これからも感謝の気持ちを忘れずに健やかに過ごしてまいりたいと存じます。
文責:笹木幹人